煩悩活動と本当のワクワク

あおぞら学校、6年目に入りました!

またまたこちらの愛ぞらブログは久々の投稿になってしまいました。毎回魂を込めて、夫婦でこのブログを仕上げております。

 

早速ですが、「煩悩(ぼんのう)活動」略して「ボン活」ってご存知ですか??

聞きなれない言葉なのも無理はありません。私たちのオリジナルワードですから、携帯の変換でも出てきませんw

まず「煩悩」とは、仏教用語で、欲望、欲求、妄念の意味または、苦しみの原因になるのもです。読んで字の如く「煩わす」「悩ます」です。

欲望のままに生きても「人」としては満たされず、人として「幸せ」にはなれないので、除夜の鐘で煩悩を一つ一つ祓っていくという風習があります。

とは言え、煩悩とか欲望に囚われたままでいる人とか、煩悩に寄り添って何かを決める人は結構多いのです。

そんな欲望から湧き上がる思いからの行為や活動を「ボン活」と呼びます。なんか響きが可愛いでしょ?でも実態は可愛いだけではすまない部分もありますので、そこに触れていきたいと思います。

 

まず話はこころカウンセリングセッションのことです。以前から「ワクワク」の捉え方ってこんなに人によって違うのか、ということを目の当たりにしていました。

極端な例ですが、「ワクワクするからやって良いんでしょ」みたいなノリで、浮気をする人もいます。

そう言われてしまうと、本人がワクワクすると言っているから浮気をありにしないといけないのかな??なんて一瞬思ってしまいます。

いやいやいやいや、絶対ダメでしょ!人を傷付けるし、信用だって無くすし、楽しいからって言っても、誰もハッピーな未来がありません。

って普通に考えれば簡単なことなのに「ワクワクすることをして」という言葉を使うと、浮気までひどくなくても「えー??」って選択肢を取る人がこんなに多いんだなぁと感じました。

「それはダメでしょ」なんてことを言おうものなら「私のワクワクを否定するなんてひどい!!」と怒らせるか、無視されるかなんですよね。

「ワクワクする」って本当に素晴らしい言葉なのですが、使うのが怖くなっちゃいますね。

というわけで、「ワクワク」には2種類あるってことをしっかり理解しておきたいと思います!

「ボン活ワクワク」と「個性を生きるワクワク」です。

ここでもう一つ、あおぞら学校の生徒とワクワクという言葉が起こした事例です。

当時8歳の生徒に「ワクワクすることをしよう」と伝えたら、リビングのテーブルを使ってボール遊びを初めてしまい、テーブルがどかーんとひっくり返って、その大きな音を楽しむ生徒がいました。

そうなっちゃいますか、とただ見ているわけにもいかず、すぐに、注意して、危ないことはやめてもらいました。

が、この生徒からは「なんで、注意されなきゃいけないの?結局この学校も大人の言うことを聞かなきゃいけないじゃん。」

と言われたのでした。

こんな風に周りの人を一方的に悲しませたり、迷惑を掛けるものはどんなにワクワクしても「ボン活」になりますね。

この生徒には、スクールの物を大切にしてもらえなかったり、周りの人のことを考えてもらえなかったことについて「悲しいよ」と伝えたら、「悲しい思いをさせたいわけじゃない」と話してくれました。リビングで大暴れした時は「😱😨😰」と感じましたが、腑に落としていきたいんだろうなと感じる言動もみられたので、ひとまず安心でした。

ここまでをまとめると、

「ボン活」=「悲しみ」が付きもの

となります。

あおぞら学校では、生徒たちがこの「ボン活」という言葉を使ってはいませんが、スクールの活動では、欲望のままに過ごすいわゆる「ボン活」はして欲しくない、しないように個人でもみんなでも努めたい、

つまり、「あおぞら学校ではボン活は認められない」というのが、これまで5年間行ってきた会議での結果なのです。

 

結果に「悲しみ」が付いてくるような「ボン活」が良いものじゃないってことは、子どもたちはすぐに理解しますし、子どもたちと過ごすと大人のスタッフも改めて「良くないな、気を付けよう」と思うのですが、

やはり多くの大人は「ボン活」を堂々としています。なので子どもの立場からすると「なんで大人なのにそんなことするの??」と混乱することもよくある話です。

私はむしろ「ボン活」をする大人の気持ちはよーくわかりますw 私も以前は「ボン活」を堂々として、SNSにあげるまでしていました😓

私自身の例で、「ワクワクすることをしよう」「我慢はよくない」という話をされた時、「子どもがいるからって、我慢はダメなんだ」という大義名分を掲げて、自分の都合で我が子たちを振り回すような生活スタイルをしていた時期がありました。

当時を思い返すと、自分の親からは「あんた遊び過ぎじゃない?そんなんで子どもたち大丈夫なの?」と言われたような気もしますが、大義名分に基づき、正論に対しては「むっ😠」としていました。

どんな慈善活動をしても、我が子を振り回すようなことは「ボン活」です。

すぐにボン活をしている状態であることを認め、思考や生活スタイルを見直して、お世話になった人への感謝の気持ちは決して忘れず、人に迷惑を掛けたことは反省していかないといけません。

また、こころカウンセリングのようなセッションも、ボン活の一環として受けたり提供したりすることもできてしまいます。ボン活としてセッションを受けても効果はありません。ボン活としてセッションを提供することは、バチが当たるような活動です。

さらに、「ボン活」の一環で、結婚、出産、家を建てた、事業を始めた、転職をした、なんて人もいます。一見、取り返しのつかないようなことに思えますが、ボン活を辞めて、真剣に結婚生活や子どもの未来、家や会社を身を挺して守るなど、責任を取ることに向き合いましょう。

「ボン活」を辞めれば、それら本来の素晴らしさや、本当にやるべきことが見えてきます。

自分が今やっていることは「ボン活」かそうでないかの判断は、周りの人が悲しむかどうかです。家族さえ良ければ良いということもありませんし、家族内に悲しむ人がいたらなお重大な問題です(相手が毒親やDVパートナーの場合なら別問題です)。

「ボン活」のことを否定するようですが、そっちの方を好むという人が絶対にいないとは限りません。

個人的には「ボン活」をし続けるにはかなりの覚悟がいると思います。なんの覚悟もなく「ボン活」をすることはかなり危険です。

どんな危険があるかと言えば、予期せぬトラブル、事故、大病、めちゃくちゃヤバいこと、悲しみを生み出した分のバチ、とかですかね。

抽象的も良いところですが😅個人的にはこんなことが心から怖いと感じるので、やはり「ボン活」はできませんし、応援するつもりもありません。

では「ボン活」をやめて、仏道に入門するわけでもない人は何をすればいいのでしょう🤔

やはり「個性で生きる」に着地しますね!「ボン活」を辞めれば自然と本当のワクワク「個性で生きる」が見えるはずです。

↑それぞれにあった土地で綺麗に咲いて、他人を邪魔せず、みんな気持ちよく過ごす平和イメージの図💐

 

ところでオルタナティブスクールの開校、運営、維持を始めて6年目になりますが、まぁ困難、試練、試行錯誤、体力消耗の連続です。以前の私のような、何の覚悟もない「ボン活」の一環ではできませんでした。

ですが、困難、試練とは言っても、今後何が起きても今の自分ができるMAXのことを、いつまでもしたいと感じています。

今の仕事や生き方が本当に「ボン活」ではないかどうか、私のことはどのように判断してもらえればいいのかわかりませんが、今の生き方に対してバチがあるならそれも受ける覚悟があります。

ちなみに、私たちはこころカウンセリングの提供とあおぞら学校のスタッフをしているという立場から、自分たちが「ボン活」をしないということはもちろんのこと、他人の「ボン活」に加担しないということも意識して仕事をしています。

私たちの言いたいことは、

です。

つまり、「ボン活」に没頭している人にとっては敵みたいな存在です。もしも、ボン活時代の私が今の私に会ったら、私のことは大嫌いになっていることでしょう🤣🤣🤣

というわけで、結局は人間、生きているだけで「誰も悲しませない」とか「誰にも嫌われない」なんて無理ですね。

ならなおさら、わざわざ自分から人に悲しみを与える「ボン活」って、する必要ありますか??

あおぞら学校は開校6年目にして、ボン活をしたくてもできないような環境が整ってきました!生徒、スタッフとしてはやはり、みんなで個性を生きたいのです。このことに賛同してくれる方、

また、お互いを悲しませ合うような「ボン活」から抜け出したい方、是非あおぞら学校、こころカウンセリングにお越しください😊