友だちってどんな存在?

お友だちが欲しいと思ったり、お友だち関係で悩んだり、現代社会では子どもも大人も人間関係の悩みは尽きませんね。

苦しいけど、一人ぼっちよりはマシなのかな?孤独と引き換えの悩みなのかな? と悶々と考えちゃったりしたこと、あります。

その時は出口の見えない悩みに思えました。お友だちがいてもいなくても悩みは「友だち」になるからです。

友だちが人生を豊かにしてくれる存在だということも、その通りだと思いますが、「豊かな人生のため」と思って友だちをつくると空回ることになったりもします。

では、人生を豊かにしてくれるお友達にはどうしたら出会えるのでしょうか?

早速結論ですが、自分軸がしっかりあるなら、多くの出会いの中から「同志」に出会うことになるでしょう。自分軸がしっかりある場合、友だちとは?と聞かれれば、この「同志」が浮かんでくるでしょう。

というわけで、「相手は鏡」というように、「親友」と呼べる存在は「自分(軸)」から産まれるのではないかと思うのです。

「同志」とは志が同じ仲間ということです。部活仲間や会社の同僚のイメージですかね?同じ目的を持って集まっているなら同志です。

なので、同じ学年や同じクラスというだけだと「同志」だとは言い切れませんが、その中に何かの同志がいる可能性はあります。

「同志」は志という絆で結ばれていますので、その事を志す限りはその関係は強いです。同志が集まると「集団効果」が良く作用します。

例えば、受験勉強もたった一人で勉強〜受験をするより、同じ目標のある人の集団で授業をする方が個人の強みが発揮されるそうです。例えば「東大受験専科」とかね。

確かに、仲間がいるという意識がプラスされれば、目標に向かって頑張れますよね。

自身の経験でも部活仲間や会社の同僚、後は2年間所属した社会人吹奏楽バンドの方々とは本当に良い時間を過ごせたと思いますし、その思い出はいつ思い出しても良いものなのです。

というわけで、「同志」と出会い、共に過ごすためにはやはり、自分の志をしっかりと持つことが絶対条件なのです。

「志」は時期が来ると終えたり、変わったりするものなので、退職、結婚、出産、転職などで志が変わった場合、それまでの同志とはお別れにはなりますが、個人的には志が変わる前のことを思い出すと、確かにあの時、同志との時間は人生において豊かな時間だったと思えます。

同志達と同じ方向を向いて何かを目指した経験は、以降も宝物です。

志が変わるとまた新たな出会いもありますし、会えなくなった以前の同志との繋がりも心のどこかではあるように感じて、「寂しい」と思うことはあまり無いようにも思います。

あと、数は少ないですが、親友だと思える人も過去の同志です。

 

では、逆に「友だち問題」で悩んでしまうとはどんな状況なのでしょう?

まず単純に考えると志の違いや温度差は人間関係に影響します。

例えばスポーツのチーム内でも「優勝」を狙う人と「ただ楽しむだけ(きつい練習は嫌だ)」と思う人が入り混じっている場合、それはそれは面倒な人間関係になります。

自身の経験だと、20代前半の時にネットワークビジネスのセミナーに誘われて、興味本位で参加させていただいた時は、場違い感を覚えて、モジモジしてしまいました。

当時の私は所属している会社で達成したい目標があったので、やはり志が皆さんとは違い、そのセミナーに参加しながらも温度差で胸が痛くなってしまいました。

そのセミナーの内容は面白かったし、その場に来ていた人もフレンドリーで楽しそうな雰囲気でしたが、離脱した私でした。

つまり「同志」との居心地は断然良いと感じるのです。

乳児の頃はお母さんと一緒に過ごすのが一番心地良いという「母子一体感」の時期ですが、5〜6歳になり「離別感」をしっかり習得できると、志を持つようになり、「お友だち(同志)が欲しい」と言ったり、感じたりするでしょう。

つまり、お子様にとって「お友だちが欲しい」と思うことは成長の証なのですね😊

ここで親心として注意が必要なのは「お友だち」とは単なるクラスメイトでは無いということです。

もちろん、クラスメイトやお家の近いお友だちと仲良くできることは良いことですが、「同志」が欲しいという欲求は満たされないかもしれません。

幼いお子さんは「同志」との時間を十分に過ごせなかったり、簡単に引き離されたりされちゃう立場なので、人の親なら自分だけではなく、我が子の「同志」も大切にしたいですね。

 

あおぞら学校は「個性を生きる」を志す集団と言えます。

「個性を生きる」ことも一人で行うより集団で行うと素敵な集団効果が生まれます。

個人的には、先生に決められた時間割、苦手な教科、苦手なクラスメイト、と懸命に向き合う選択肢しか知らなかった自身の子ども時代と比べると、自分のしたいことに従ったスケジュールをこなす生徒達の様子は安心感の中にいるという感じがします。

あおぞら学校の生徒の実際の様子で、誰かと一緒に何かをするその瞬間は生徒間に「同志」の絆が産まれます。その活動が終わると実にさっぱりとそれぞれの活動に分かれるというのも特徴的だと思います。

時々生徒間の揉め事はあるので、大人のスタッフに助けを求めることもありますが、第三者を交えて話すと、「つまりは目的が違うのね」という所に着地します。

その瞬間は「同志」では無かったのだと認識できるのです。その後、別々に活動するか、意識を合わせてやっぱり一緒にやろうかなど考えればいいのです。

大人になってから知り合うお友だちの中にも「なんだか合わないな」とか「前ほど話が合わなくなったな」と感じる相手がいますが、志が違う者同士だった、志がズレたという可能性は高いので、無理して合わせたり合わせさせようとせず、それぞれの方向に分かれればお互い気持ちが良いはずです。

あおぞら学校の生徒たちは、自身のスケジュールをこなす中で、1人で過ごし方が良い時と、同志がいた方が断然楽しい時を両方味わっています。そして気の合う同士で好きなだけ時間を過ごすことができるのです。

地域の学校や幼稚園でも仲のいいお友だちはできると思いますが、その場合は暇や寂しさを埋めるためにお友だちを利用するという「共依存」の関係性が生まれることも多いのです。共依存関係は最初はとても良いと感じますが、後々崩壊する関係性です。

仲がとても良かったはずの人と悲しい別れをすることになったら「共依存関係」だったという可能性が大です。新しい友だちを作る前にやはり「志」は何かに注目しましょう。

5〜6歳から、「母子一体感」から「離別感」に移行できるようなサポートはご家庭の大切な役割になります。お友だちと上手く関係性を築けない原因に「離別感」への移行が不十分ということは十分あり得るのです。

せっかく出会ったお友だちと共依存、マウンティングやいじめ、険悪な仲で結ばれないためには、自分の「志」が必要なのです。

「個性を生きる」とは、「志を持つ」と言い換えられるなと感じたりしています。

個性を生きると大好きな人たちに囲まれることが自動的にセットになるのです🥰