「マウンティング」という言葉が定着したのは5年くらい前の最近のことです。
自分の方が優位であることをアピールする、という意味で使われています。
「マウンティング」自体は言葉ができる前からずーっと日常社会で行われていたことですね。
なんなら進化前からあります。
マウントを獲ろうという内心はこんな感じ↑かもしれないですね😅 自分がこうなるのも、こんな相手と付き合うのも嫌ですよ😓
というわけで、個人的にはマウンティングはいいこと無いと思います。
「マウンティング」という言葉を聞くようになって、日常生活にこの「マウンティング」が行われていることに気付かされます。つまり日常生活で無意識に常に誰かと「勝負」をしてしまっているのが現代社会の傾向としてあるのです。
どんなことでマウントを獲ろうとしているかの例は
- 学歴
- 収入
- 容姿
- キャリア
- 旦那の収入
- 子どもの学力
- 住んでいる場所
- 持ち物
- リア充度
- 苦労
などなどあげたらキリがないのですが、日常会話で「私の方が凄いでしょ」という事を表現する人に対抗しても、下手に出てもマウンティング関係成立となります。
実に上がりたくない土俵だと感じます😅
と、自分で言いながらも耳の痛い話でもあります。この「マウンティング」という言葉が生まれた時期にはすでにどっぷりマウンティング沼にハマってましたからね。
ですが、当時の自分は苦しいと感じていながらマウンティング沼から抜け出す方法を知らずにいたと、思い返すと感じるのです。
悲しい具体例をあげると
- 恋愛経験の多い方が勝ち
- 友達多い方が勝ち
- テストの点が高い方が勝ち
- 正社員の方が勝ち
- 海外経験が多い方が勝ち
- 結婚している方が勝ち
- 子どもが多い方が勝ち
- 太ったら負け
などなどこちらも細かく考えるとキリが無く、「もう全部が全部マウンティングだったんじゃないか??」と思うのです。どうしてもマウントが獲れないと感じることや人に対しては潔く負けを認めた態度を取ると一時は楽になれたりもしますが、幸福度はかなり低いと感じます。
またまた当時をよくよく思い返すと「マウンティング」してない人も確かにいるんです。マウンティング精神を捨てられない私からすると、マウンティングしないなんてずるいとか羨ましいと感じ、嫉妬心が生まれてしまいました。
本当、マウンティング泥沼ですね😅 抜け出したいけど、「抜け出す」という概念も見失っていました。
今ならはっきり、マウンティング土俵に乗らなきゃいい話なんだとわかるのです。マウンティングをするメリットは皆無です。悪いことだけです。
どう悪いかの例は
- 他人に感謝できなくなる
- 本当の愛がわからなくなる
- 他人から嫌われる
- 人を傷つけることが平気になる
- 謝れない
- 素直になれない
- 本当のことが言えなくなる
- 自分の本質を見失う
という具合でしょうか?マウンティング精神がある限り孤立することは意外と無いかもしれませんが、サイコパスの特徴を多く捉えていますし、本物のサイコパスでないなら自分の首を自分で締めるような苦しい状態に自らを追い込みます。
ではマウンティング沼から抜け出すために少し分析したいことがあります。それは「承認欲求」についてです。
↓こちらは心理学者マズローが主張している人間の5段階欲求の図です。
ごく簡単に説明すると、衣食住、安全(下の2段)が確保された生活をしていると、次に人や社会との繋がりが欲しいという(家庭、学校、会社などに)所属したいという欲求が生まれます。
所属するというところに落ち着くと次に来るのが「承認欲求」です。
この「承認欲求」に2種類あり、
- 他者承認(低いレベル、他人から認められたい欲求)
- 自己承認(高いレベル、自分で自分を認めたい欲求)
となります。
そして、「他者承認欲求(低いレベル)」の方がマウンティングを生み出しているんです。誰にでもある欲求ですし、大切な感情ですが、強すぎて他者へ攻撃性やバトルを生み出すので「マウンティング」なんてネーミングされたんですね。
まず、他者承認欲はどう満たせばいいのかと言えば、
- 挨拶をする
- 楽しく会話する
- 身近な人と仲良くする
などのことで本来は満たされるものなのです。なので、日本の現代社会では努力や才能など無しに、むしろ生まれながらに他者承認欲が満たされる、そんな恵まれた平和な時代だし国なのです。
ですが、当たり前になり過ぎたのでしょうか、それだけじゃ足りないと思い込んだり、教え込んだりするのが現代社会の特徴なのかと思います。
これだとその次の高いレベルと呼ばれる「自己承認欲求」に目を向けにくいと思われます。
ですが、「自己承認欲求」を満たすことが「個性を生きる」事に直結していると言えます。
「自己承認欲」は「自分の興味のある事や特技に気付く」「どうやったらもっと上達できるのかを追求する」「自分で立てた目標を達成する」ということで満たされるものです。「自己顕示欲」とは別物です。
日本の教育の歴史などを遡ると、「お国のために」「お家のために」などを第一とする思想があったため、「自己承認欲求」を満たすようなことが御法度とされていた悲しい時代はありますね😢 現代社会や現代教育にもまだまだ残っている風習に感じます。
本当にマウンティングってエネルギーが根強いというか、強力なウィルスみたいですね😅
マウントを獲ろうとしてしまう人は
- 自己肯定感が低い
- 寂しがりや
- 目立ちたがりや
などの特徴があるので、なんだか可哀想なのですが、自分のことをそんな風に捉えてしまう人にはよく考えて欲しいことがあります。
- 話せる家族がいる
- 挨拶をしあえる相手が一人でもいる
- 知り合いが一人でもいる
これらの環境があるなら「他者承認」はされていると認識していいのです。更に友達がいたり、幼稚園、学校、会社などに所属しているとなれば、もう恵まれていると認識していいレベルなのです。
というわけで、「他者承認」を追い求める必要がある人って、いますかね?行政の整った日本ではゼロに近いと思うのです。私たち日本人は、「明日から誰にも認められなくなる」なんて心配は一切しなくてもいいように守られているのです。まずそこを理解しましょう。
「今以上に他者承認を追い求めなくても平気」ということを腑に落とすのには時間がかかるかもしれませんが、それでも腑に落ちるまで自分に落とし込みましょう。
いかにマウンティングが無意味かご理解いただけると思います。
ではマウンティングの無い世界とはどんなところか?についてですが、
オルタナティブスクールでもマウンティングをすることは可能です。実際、私達が参考にしているサドベリースクールの卒業生でもマウンティング精神の強い人はよく見掛けます。
あおぞら学校のシステムでは「自己承認欲求」を満たす時間を好きなだけ確保することが出来ます。もし、他人の時間を邪魔するようなことがあれば、風紀委員会案件になります。
マウンティングは他人の邪魔になることなので、目に余るものは風紀委員会が注意できることですし、解決しない場合はスクール会議の議題にもなります。つまり、マウントを獲ったり、マウンティングを頑張っても評価されたり賞賛される場所ではありません。
ゲームや試合を楽しくすることはありますけどね😊
というわけで、あおぞら学校のようなオルタナティブスクールでもマウンティングはできちゃいますが、「自己承認欲求」を存分に満たせるような環境の学校にマウンティングをしに来る理由は何も無いのです。